木曜日, 3月 08, 2007

個人の死と世の中 (選手全員交替してもゲームは続く)

何回か死を意識したときに、自分が死んでも、世の中は変わらないという、
当たり前のことが不思議に思えて仕方がなかった。

何故当たり前のことが不思議に思えるかというと、
自分は自分の感覚と脳みそだかで、外界を認識しているから、

世の中というものは
自分がいるから、
自分が感じることができてこそ
それが存在している。

という大きな錯覚をしてしまうからのように思えた。
でもその錯覚は個人的には現実かもしれない。

僕は新宿駅と渋谷駅を毎日のように使っているが、そこでみる
大勢の人も、150年もたてばもう誰もこの世にいなくなっているだろう。
(医学が進歩して、もっと伸びることもあるかもしれんが)

それでも、世の中は、続いている、より若い世代が引き継いで
社会というものを継続していく。

それはまるで、ほとんどの人には関係ない、ゆっくりした、それぞれは個別に進むのに、
全体としては壮大な規模で進む選手交代のように。

僕の知る限り、個人がなくなって一番、日本国内で大きく報道されたのは
昭和天皇の死 崩御(というのでしょうか)だったが、それでもその前後でも
時代は同じように連綿と続き変化はしても連続的なもので、唐突な変化とはならなかった。

個人にとっての死は一大事だけど、世の中にとっては、そんなもんなんだね。

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